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Channel: 彩の国在住★徒歩鉄の挫折と栄光?の撮影記
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2017年11月 再び大井川鐡道撮影行②

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漸く実現したC10 8牽引のお座敷客車連結編成の撮影の為、11月24日(金)の晩に仕事を終えた其の足で出かけることにする。
前回の大井川鐡道撮影時と同様、普通列車のみで金谷に向かうと当日早朝出発では撮影地への足となる午前9時台の列車に間に合わないので、前日晩に出発し前回同様沼津のネカフェで一夜を過ごし25日朝に再び金谷に向かう事にした。

11月3日の時と同様、金谷9:01発の普通列車で撮影地最寄りの川根温泉笹間渡駅(以下「笹間渡」と記載)に向かい「定番撮影地」の鉄橋で撮影する。

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↑ 鉄橋を渡るC10 8+国鉄型旧客+お座敷客車(元西武の旧型電車を改造)+国鉄型旧客の編成 2017年11月25日撮影





此の定番撮影地の「笹間渡鉄橋」は下り列車の撮影の場合、北(千頭方面)に向かって走る列車を西側から撮る形になるので午前中の撮影の場合、太陽の位置が列車の真後ろとなってしまうので10時~12時台にやって来るSL列車を此処で撮るとどうしても『逆光』の状態になってしまう。

また私の立ち位置は「鉄橋の西側」からの撮影で、反対の東側から鉄橋を渡る列車を撮影すれば『順光』状態にはなるものの、「鉄橋の東側」は複数建っている架線柱間に太いケーブルが幾本か横切っていて、鉄橋を渡る列車の側面に掛かってしまう(撮影の仕方次第ではケーブルを目立たなくする撮り方もあるかもしれないが…)ので、私としては例え『逆光』での撮影になろうとも敢えて「鉄橋の西側」から最も『逆光』状態での撮影に不向きとされるSL列車を『強引』に撮影する手法を採る事にした。

多くの「撮り鉄」の方々は、「快晴の中で列車を撮影したい」…という意見が圧倒的に多いかと思われるが、私としては予め『逆光』状態となる事が予測される撮影地で撮る場合、曇りか雨(但し小雨程度)の天候になってくれることを期待しているものの、「晴れて欲しい」場面で晴れてくれない割にはこういう時に限って「雲一つない快晴」となる事が圧倒的に多い気がする。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行③

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笹間渡鉄橋で、お座敷客車を連結したC10 8牽引の臨時「かわね路11号」を撮影した後、機材を片付け笹間渡の駅に戻る。

此の後、C11 227牽引の臨時「かわね路13号」と C11 190牽引の定期「かわね路1号」が相次いでやって来るが、「13号」の方は前回撮影時に『トーマス列車仕様』のオレンジ色の旧客が充当されていた事から今回も同様の編成で来ると思われるので撮影はせず、もう一方の「1号」の方は上りの千頭折り返しのSL各列車を隣駅抜里の駅近くにある有名撮影地での撮影を考えていた事から、早めに撮影場所を確保する目的もあり同列車も抜里の駅周辺で撮影する事にした。

私の予想通り『トーマス列車仕様』のオレンジ色の旧客編成でやって来た「かわね路13号」を笹間渡駅で「見る鉄」し、同駅11:26発の上り電車で抜里に向かう。

前回訪問時(同年11月3日)の「かわね路1号」は、予想だにしなかったSLへのヘッドマーク装着でやって来たが、本日も含めた11月23日~26日の期間中に『SL乗車850万人達成』記念のヘッドマークを「かわね路1~2号」に取り付けられる事が大井川鐡道から発表されており、抜里での同列車の撮影はヘッドマークが装着されているSL側からの撮影では無く、後補機のELが連結されている「後追い」での撮影も考えてはいたものの、「後追い」の好撮影地が見つからなかった事から駅近くの築堤を駆け上がる所をSL側から撮影する事にした。

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↑ 「かわね路1号」 大井川鐡道本線 抜里~川根温泉笹間渡にて 2017年11月25日撮影




青空をバックに眼下に茶畑を望みつつ、「上り坂」の築堤を駆け上がるC11 190牽引の「かわね路1号」。
『SL乗車850万人達成』記念のヘッドマークが付くから…という理由であまり「ヤル気」が起きなかった同列車の撮影だったが、思わぬカタチで『手応えのある作品』を撮影する事が出来た。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行④

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抜里駅の笹間渡側で下り「かわね路1号」を撮影した後、すぐに上りのSL各列車の撮影の為、移動を開始する。
向かった先は、同じ抜里駅近辺の家山側の茶畑を入れてカーブに進入して来る列車を撮れる撮影地。

此の場所は他の方々のブログ記事などに多くの作品が発表されている他、上りのSL列車の他の撮影地もそう多くは無い事から混雑が予想されるので、前回記事に画像を掲載した「かわね路1号」の撮影場所もわざわざ抜里駅近辺に限定し同列車撮影後すぐに移動する体制を採ったのだが、現地に行ってみると「かわね路1号」通過からあまり時間が経過していないにも関わらず既に5人ほどの同業者の方々が場所を確保していた。

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↑ 元南海ズームカーの普通列車  大井川鐡道大井川本線抜里~家山にて 2017年11月25日撮影





三脚が並ぶ撮影地の一番端の所に場所を確保し、カメラを構えるとすぐにやって来た元南海ズームカーの普通列車を撮影する。
実はカメラを三脚に取り付けている最中に列車がやって来たので、ピントも合わせずに撮影したのだが、撮影後カメラのモニター画面で画像を拡大すると、以外にもピントがばっちり合っていたのには驚いた。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑤

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大井川鐡道抜里~家山間の緩やかなカーブを描きながら茶畑の中を走る列車が撮れる撮影地。
私が此の場所に着いた時点では既に5人ほどの同業者の方がいたが、此の日は紅葉シーズン真っ只中でSL列車が3本運転される事もあって、其の後も同業者の方が次々とやって来て最終的には10~15人程に膨れ上がったと思う。

前回記事で画像を掲載した元南海ズームカー普通列車を撮影した時点では、車両の前面にしか太陽の光が当たらない「半逆光」の状態だったが、其の後太陽が西の空に移動したことで「順光」の状態にはなったものの、午前中は雲一つない青空だったのが此の時間になって空に雲が湧いてきて時折太陽を隠すようになって来た。

午前中の抜里~笹間渡間の笹間渡鉄橋での撮影では完全な「逆光」の状態になるので、列車通過時には「曇り空」になる事を望んでいたのに結果的には『其の状況』にならなかったのに対して、此の「順光」状態で撮れる状況の時に雲が湧き出てくる…というのはどういう事なのか…?!

14時20分を過ぎた頃、遠方からSLの汽笛や走行音が聞こえて来た。
上りSL列車の1番手となるお座敷客車連結でC10 8が牽引する「かわね路12号」のようだ。

「かわね路12号」は隣にある川根温泉笹間渡駅に停車する為、一旦はSLの走行音がピタリと止まったが、やがて周りの山間に汽笛の音が鳴り響いた。

川根温泉笹間渡~抜里間にある鉄橋を「かわね路12号」が渡る音が聞こえてくる。
迫り来る「かわね路12号」の走行音を聞きながらも、私は後方の太陽の位置と雲の動きを気にしていた。
今の時点で太陽の姿は見えてはいるものの、其のすぐ下に雲があったので「かわね路12号」通過時には太陽が雲に遮られてしまうだろう…と予測して、カメラの露出を「曇り空」用の数値に変えることにする。

其の後、鉄橋を渡り終えた「かわね路12号」が抜里駅を通過し、我々のいる撮影地の茶畑のカーブに差し掛かって来た。

ファインダーを覗きながら茶畑のカーブを往く「かわね路12号」を目で追い続ける。
私の予測通り一旦は後方の太陽が雲に遮られて周囲は暗くはなったものの、まだ「かわね路12号」が予定していたシャッター位置に差し掛かっていない…というのに再び太陽が雲の隙間から出て来たのか急に周囲が明るくなり、またファインダー内の露出の数値も急に上昇してきた。

此のままでは「露出オーバー」の画像になるので、急遽露出の数値を再び変える。
予期せぬ事態と、急な露出値の変更で若干シャッターを押すのが遅くなってしまい、機関車C10 8の前の部分が後ろの木の架線柱に「裏被り」(本来なら架線柱の手前でシャッターを押す予定だった)してしまった。

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↑ 「かわね路12号」 大井川鐡道本線 抜里~家山にて 2017年11月25日撮影




往路のC10 8+お座敷客車混結編成の「かわね路11号」の撮影では、雲らならければ完全な「逆光」状態になってしまう「11号」よりも復路の此の地点での「12号」の撮影が本命だったのだが、『架線柱の裏被り』といい、またC10 8の煙突からあまり「煙」が出ていない事もあり、何となく不満の残る撮影となってしまった。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑥

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大井川鐡道抜里~家山間の茶畑を入れて撮れる撮影地。
お座敷客車を連結したC10 8牽引の「かわね路12号」が通過した後に更に2本のSL列車がやって来るので殆どの方が此の場所に留まって撮影するようだが、私としては其の後やって来る「かわね路14号」が『トーマス列車仕様』のオレンジ色の旧客の編成であるので撮影する気は無く、また「かわね路2号」の方は牽引機のC11 190に『SL乗車850万人達成』記念ヘッドマークが取り付けられているので先頭のC11の方からの撮影ではなく後ろの後補機E10(現在101と102の2両が在籍しているが、下の画像がどちらのカマなのかは不明)からケツ追い撮影する事とし、機材を片付け此の撮影地を後にすることにした。

抜里~家山間の撮影地から徒歩で移動を開始し、抜里駅の前を素通りしての記事で撮影した場所に向かう。
此処では往路のC11 190牽引の「かわね路1号」が築堤の急勾配を駆け上がるのを撮影しており、今度は帰路の「かわね路2号」が勾配を駆け下りる所を後方の旧型電機のE10の方から「後追い」で撮影する予定だったのだが、「かわね路1号」の撮影の際は青空が広がっていたものの、今現在では空一面に雲が広がり「灰色の空」をバックに列車を撮影するのも嫌になってきたので他の撮影地を探す事にする。

ところが他の撮影地を探すも、なかなかいい場所が見つからない。
撮影場所を求めて抜里駅周辺を歩き回っている内に隣の笹間渡駅(14:47発)を発車した「かわね路14号」が通過してしまった。

撮影予定の「かわね路2号」が来るまであまり時間が無い中、抜里駅周辺を必死に探し回ったが結局撮影地が見つからず、仕方なく「かわね路2号」の前に来る抜里15:09発の普通列車で抜里~新金谷間の別の撮影地に移動しようか…と駅に向かったら、偶然にも駅前に先程C10 8牽引の「かわね路12号」を撮影した茶畑のカーブを後ろから撮れる場所を見つけることが出来、此処で撮影する事にした。

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↑ 晩秋の山里を往くE10(後補機)+旧客編成の「かわね路2号」 抜里~家山にて 2017年11月25日撮影




晩秋の斜光を受けた旧型車両独特のメカニカルな車体が輝きを魅せる。
21世紀に入って16年が経過した『平成29年11月』の撮影であるが、まさに20世紀中期の『昭和20~30年代の鉄道』の光景を目の当たりにした様な気がした。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑦

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川根路の山里に晩秋の斜光が差し込む中での大井川鐡道のSL「かわね路2号」の撮影。
前回記事では最後部の旧型ELのE10と旧客の「後追い」撮影の画像を掲載したが、当初撮影する予定は無かったものの「雰囲気が良かったから…」という事で思わずシャッターを切ってしまった「SL(C11 190)
+旧客」のバックショットも掲載したいと思う。

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↑ 晩秋の山里を駆けるC11+旧客「かわね路2号」 抜里~家山にて 2017年11月25日撮影




此れにて今回の遠征の撮影を全て終了し、機材を片付けて抜里の駅に戻る。
此の後は普通列車で金谷に向かい、JR東海道線に乗り換えて帰途に就く予定なのだが、大井川鐡道では数年前に「沿線人口と利用者の減少」を理由に普通列車の大幅削減が実施され、抜里の駅の時刻表を見ると15時半過ぎに通過した「かわね路2号」の後、17:27の普通列車まで2時間近く待たなければならない。

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↑ 抜里の駅舎内にあった駅周辺の地図





次の普通列車が来るまでの2時間近くをどう時間を潰そうか…と考えながら駅舎の中を見回してみると抜里の駅周辺の地図があって、其れを見ると家山の駅までの道順が掲載されており、何もない抜里の駅に居るよりは家山の駅まで歩いて行った方が時間つぶしにもなる…と思い、徒歩で家山に向かう事にした。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑧(1987年11月過去画像編)

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現在連載中の『2017年11月 再び大井川鐡道撮影行』まだ未発表の連載記事が残ってはいますが、此処で自身がまだ学生時代を送っていた頃の1987(昭和62)年11月に同鉄道(この当時は「大井川鉄道」だったが…)への遠征での過去画像を何回かに分けて発表したいと思います。

自身がまだ小学生だった1970年後期から1980年代、この時代は旧国鉄の電車特急の「絵入りヘッドマーク」の採用やTVでの「ブルートレイン」追跡番組の影響で少年鉄道ファンがカメラを持って昼行・夜行特急の撮影の為に駅に殺到するなど、昭和40年代の「SLブーム」に次ぐ2度目の「鉄道ブーム」に沸いていた。

其の「鉄道ブーム」に便乗するかのように国鉄昼行・夜行特急を始め、私鉄特急や此の頃から廃線への論議が始まった国鉄赤字ローカル線やローカル私鉄を扱った多数の書籍や写真集などが書店に並び、自身も何度か「立ち読み」(まだ小学生だったので書籍を多数購入できる資金を持っていなかった)をしに複数の本屋(同一書店ばかりに行っていると「立ち読み」目的の常連として店から追い払われる可能性がある為、時折書店を変えて「立ち読み」していた)に足を運んだが、其のローカル私鉄を扱った書籍や写真集の中で「旧国鉄のSL+旧型客車」や「各私鉄で活躍していた旧型電車」そして「秘境を往くミニDL+小型客車」(井川線)などの写真が掲載された大井川鉄道の各列車や鉄道情景に一際関心を持ち、いつしか同鉄道に訪問してみたい…という気持ちを強く持つようになった。

しかし当時、自身はまだ自前のカメラを持っておらず、更に小中学生時代の少ない小遣いでは自身の住む埼玉から大井川鉄道が走っている静岡までの遠征など夢また夢の話であって、同鉄道への訪問が実現できたのは高校に入り自前のカメラを手にするようになった昭和62年の秋であった。

其の昭和62年11月の連休、早朝の京浜東北線と東海道線を乗り継ぎ大井川鉄道の始発駅である金谷を目指した。
恐らく此の当時と現在とでは雰囲気が変わっていないと思われる大井川鉄道金谷駅のホームに停まっていたのは、1970年代~1980年代に本屋で何度も「立ち読み」した際に写真で見たアルミボディが特徴の6010系「しらさぎ」だった。

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↑ 笹間渡(現、川根温泉笹間渡)駅を発車する「しらさぎ」 昭和62年11月撮影




「しらさぎ」は北陸鉄道の一部路線の廃止に伴い大井川鉄道にやって来た車両で、昭和50~60年代から平成初期にかけて大井川鉄道の「看板車両」として活躍したが、其の後は車両の老朽化により廃車となり、現在は北陸に里帰りして山中温泉の道の駅にて静態保存されている。

その6010系「しらさぎ」に乗車し、此の当時からSLの『有名撮影地』だった「笹間渡鉄橋」最寄りの笹間渡駅に向かった。

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↑ 笹間渡鉄橋を渡る元岳南鉄道のステンレス車と元西武の車両の混結編成 〈撮影日同じ〉




現在では笹間渡鉄橋の近くに川根温泉の施設が建ち、駅名も以前の「笹間渡」から「川根温泉笹間渡」と変わってしまったが、此の当時は温泉施設など全く無かったものの、上の画像を見ると鉄橋周辺の風景は昨年(2017年)11月訪問した時と殆ど変っていないように感じた。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑨(1987年11月過去画像編)

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今から30年前の昭和62年11月の大井川鉄道の有名撮影地「笹間渡鉄橋」での撮影。
前回記事では、今となっては既に引退している元北陸鉄道のアルミ車6010系「しらさぎ」や元西武・岳南両鉄道の車両の画像を掲載したが、自身がまだ小学生の頃の昭和50年代にローカル私鉄を扱った書籍や写真集に掲載されていた大井川鉄道の「各地の私鉄で活躍していた旧型車両たち」が続々とやって来た。

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↑ 元北陸鉄道6000系「あかいし」+元名鉄旧型車+元西武旧型車混結編成 1987年11月撮影





上の画像の6000系「あかいし」は、前回記事に掲載した6010系「しらさぎ」とは車体構造は違うものの同系同スタイルの車両で、以前の活躍していた北陸鉄道と大井川鉄道とでは架線の電圧が異なる事から「電車」としてでは無く「付随車(客車)」としての扱いとなり3両目の元名鉄の旧型車両に牽引される運転形態(以前の6010系「しらさぎ」も同様の運転形態だったが、後に自走出来るよう改造された)となった。

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↑ 元名鉄の旧型車両(先頭車の窓から顔を出しているヤツは俺の撮影の邪魔をしていたのか…?!) <撮影データ同じ>




こちらも昭和50年代に、ローカル私鉄を扱った書籍や写真集で何度も見かけた車両。
これらの昭和50~60年代に大井川鉄道で活躍していた旧型車両たちは、平成時代に入ると車両老朽化により現在活躍している元近鉄の特急型車両(大井川鉄道では普通・急行列車として運用)や元南海電鉄のズームカーに次々と置き換えられて姿を消した、

かつて日本各地の私鉄で活躍していた車両たちが次々とやって来る中で、珍しい列車が私が立っている後方…すなわち千頭方面からやって来た。

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↑ E10牽引の貨物列車  <撮影データ同じ>




これまで幾度と撮影してきた旧型電車群とは明らかに違う機器音を後方から轟かせてやって来たのは、E10牽引の貨物列車だった。
今まで撮影してきた「笹間渡鉄橋」の後方の笹間渡駅側…すなわち千頭方面から来る列車も此の立ち位置から撮影は出来た(次回記事にて其の画像を掲載予定)のだが、あまりにも「不意打ち」でやって来たので撮影に対応できず、「ケツ追い」で鉄橋を渡るのを撮影するのが精一杯だった。

大井川鉄道の貨レは昭和58~59年頃に国鉄の貨物合理化の煽りを受けて廃止された…との話を聞いてはいたものの、此の頃は大井川の上流で井川線のアプト式の新線が設置される契機になったダムの建設工事が行われていて、ダム工事の資材運搬等の為に一時的に貨物列車の運転が復活したとの情報は入手してはいたが、平日のみの運転と勝手に思い込み週末とか連休に運転されるとは思ってもみなかった。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑩(1987年11月過去画像編)

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引き続き昭和62年11月の「笹間渡鉄橋」での撮影。
前回記事で予告も無しにやって来たE10牽引の貨レが「ケツ追い」撮影になってしまった事で弱冠気落ちしたが、此の後千頭からのSL列車が次々とやって来るので気を取り直して撮影を続行する。

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↑ E10後補機の定期「かわね路」(後追い撮影) 笹間渡~抜里にて 1987年11月撮影




此の当時の大井川鉄道のSLはC11 227とC56 44、そして日本ナショナルトラストが所有するC12 164の3両が在籍し、C11とC56が定期「かわね路」と臨時のSL列車(此の頃は時期にもよるが臨時「かわね路」とか「南アルプス」等の列車名が付けられていた)の2往復、そして日本ナショナルトラストが運行するC12牽引の「トラストトレイン」の3往復が運行されていた。

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↑ C11 227が牽引する臨時「かわね路」




前回記事のE10牽引の貨レでは撮影出来なかった笹間渡駅側にカメラを向けての臨時「かわね路」の撮影。
当時は車庫のある新金谷にターンテーブルが無かった為、上りのSL列車が金谷に到着した後にSLの方転が出来なかった事もありC11やC56の「逆向き」運転が見られたのだが、此の運転方法ではSLの車輪の摩耗の偏りが大きくなるとの理由で、後に新金谷にターンテーブルが設置される事になった。

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↑ C12 164が牽引する「トラストトレイン」




C12とオハニ36、そして元特急用旧型客車のスハフ43を連結した「トラストトレイン」。
現在のスハフ43は、昭和33年~35年頃の特急「はつかり」(上野~青森間)時代の塗装である青色の車体に白帯(Δ竜事のE10次位の車両)を纏っているが、昭和62年11月の撮影時では「はつかり」に使われる以前の特急「かもめ」(当時は京都~博多間で運転)に使われていた時代(昭和28年~33年)の茶色の塗装だったようだ。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑪(1987年11月過去画像編)

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笹間渡鉄橋にて昭和62年当時に大井川鉄道で走っていた旧型電車やSL列車などを撮っていたが、夕刻になった事もあり撮影を切り上げ笹間渡から普通電車で千頭に向かう。
此の日の晩は千頭駅近くの民宿で一泊し、翌朝井川線の1番列車に乗車した。

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↑ 奥泉駅に停車中のDD20牽引の井川線列車   昭和62年11月撮影(下の各画像も)




昭和62年当時の大井川鉄道井川線は、まだアプト式の新線に切り替わる前だったので上の画像の様に井川方に牽引機関車のDD20が連結されているが、現在ではアプト式の運転区間に於いて専用のEL(ED90)を千頭方に連結する関係で上下列車ともDD20を千頭方に連結し、井川方には運転台が設置されている制御客車を連結するようになった。

また上の画像では見づらいかも知れないが、客車の後ろに貨車数両が連結されており、他の鉄道では殆ど見られなくなった「混合列車」の編成になっている。
大井川鉄道井川線では時折此のような編成(黒部峡谷鉄道でも「混合列車」が走っている事があるそうだ)も見られる事があるそうだが、一部区間が「アプト式」の新線に切り替わった現在でも運行しているだろうか…?

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↑ 川根小山駅に進入するDD20重連牽引の井川線客レ 




千頭から奥泉まで井川線列車に乗車したが、其の最中に奥泉の一つ手前の川根小山駅周辺の紅葉が綺麗だったので上り列車で戻って撮影する。

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↑ 他の普通鉄道では味わえない山深い秘境地帯を行く




本当は千頭から終点の井川までの井川線全線を乗り通したかったのだが、当時はまだ学生時代という事もあって持ち合わせの旅費が無く奥泉まで行くのが精一杯だった。
其の後、平成時代に入って一度井川までの乗り通しを果たしたが、既にアプト式の新線に切り替わった後で、出来れば此の昭和62年訪問時にアプト式新線に切り替わる前の旧線区間を含めた井川線の全線乗車をしたかった…と今此の記事を書きながら後悔している…(泣)。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑫(1987年11月過去画像編)

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昨日の1月26日、地元のさいたま市で午前5時までの最低気温が氷点下9,1度を観測、1977年の統計開始以来最も低い気温を観測しました。
因みに同時刻に於いて他の関東の都県庁所在地…すなわち北関東の宇都宮や前橋どころか、我が地元より標高の高い位置にある長野や東北で最も寒い盛岡よりもさいたま市が最低の気温になるとは…(泣)。


井川線の乗る鉄(奥泉まで)&撮影を終えて千頭に戻る。
此の後は14時ごろに千頭を発車するSL[かわね路」(現在の2号)に乗車する予定だが、まだ発車時刻まで時間があるので千頭駅構内にいる現役もしくは既に引退している列車たちを撮影する事にする。

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↑ 最後部に展望車を連結した臨時?「かわね路」  千頭にて 昭和62年11月撮影(下の画像も)




上りの井川線列車で千頭駅に戻った頃、丁度金谷からの下りSL列車が到着していたが、最後部には茶色の車体に白帯を纏った展望車が連結されていて、展望デッキには「グローリア賞」のテールマークが掲げられていた。

「グローリア賞」は鉄道友の会が歴史的価値観のある古い車両に送る「賞」であるらしいが、最近は古い車両自体が全国的に姿を消して来ているので、この手の「賞」が発表される事が殆ど無くなっている。

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↑ 金谷から到着した下り定期「かわね路」




最後部に補機E10を連結した定期「かわね路」が千頭駅に到着。
此の列車が折り返し私が乗車する上りの「かわね路」になるので、停車している旧客の車内を覗きながら手にしている指定券の席番の位置を確認していたが、券に書かれた席番が自身が希望していた進行方向右側の席では無かった為、千頭駅の出札窓口にて座席の進行方向右側への『乗変』を要求した記憶がある。

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↑ かつて千頭~川根両国間を走っていたミニSL




大井川鉄道のSLで忘れてはならないのが千頭から井川線側の隣の駅川根両国との間を走っていたミニSL。
此のミニSLは大井川本線のSLの動態保存に先駆けて1970年頃から運転が開始され、ミニSL運転での数々の経験を生かし昭和51年からの旧国鉄から譲り受けたC11 227機による国鉄制式蒸機の動態保存が開始されたが、その成功が1979年の国鉄山口線を始めとして、昭和62年4月の国鉄分割民営化以降の全国各地に於けるJRや私鉄の国鉄制式蒸機の復活が相次ぐ事になった。

此のミニSLの運転は千頭駅構内から川(大井川)側の線路を走り、其の後井川線列車の線路と並走(並走区間は単線並列となる)しながら川根両国に至っていたが、川沿いを並走する道路の拡幅工事の影響により1989(平成元)年11月26日をもって運転を終了してしまった。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑬(1987年11月過去画像編)

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↑ 千頭駅手前にある有名撮影地の鉄橋を渡る定期「かわね路」 昭和62年11月撮影





前回記事にて後補機E10を最後尾にした定期「かわね路」の千頭駅到着シーンの画像を掲載したが、恐らく此の上の画像の千頭駅手前の鉄橋を渡る所を撮影した後、千頭駅に戻り前回記事に掲載したE10最後尾の駅に停車中の所を撮影したと思われる。

C11 227牽引の定期「かわね路」の到着と入れ替わりに、上りの臨時「かわね路」の牽引を担当するC56 44の入れ替え作業が開始された。

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↑ 千頭駅構内にて入替中のC56 44




C56 44は文字通り国鉄制式蒸機「C56」形式の44番目に製造された機関車で戦時中の1941(昭和16)年に軍事供出を目的にタイに送られたが、昭和54年に奇跡の生還を果たし日本に帰国し其の後は大井川鉄道に引き取られてC11 227に次ぐ日本国内第二の「国鉄制式蒸機の動態保存車」として同鉄道で活躍する事になった。

JR西日本でもC56 160を所有しているが、此のC56 44の外観上の最大の特徴は運転台上部の屋根が平べったく(C56 160や他の殆どの蒸機の運転台上部の屋根は半円を描くような形をしている)なっている事で、戦時中タイで活躍していた頃に機関銃を持った兵士を屋根の上に乗せる為に屋根を平べったくする改造が行われたそうだ。

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↑ 炭水車を先頭にバック運転で臨時「かわね路」を牽引し千頭駅を発車するC56 44




前述したとおり、此の頃は新金谷に転車台が無かった影響でバック運転で上り臨時「かわね路」を牽引するC56 44。
機関車次位に連結している白い帯の車両は展望車で、青帯を纏ったお座敷車(何れも前回記事にて画像を掲載)と同様に西武鉄道の旧型電車から改造されたのだが、お座敷車が時折臨時「かわね路」に増結される事があるのに対して、展望車の方は基本的には『団体客専用』という位置づけであるせいか、運用に入っている姿を見掛けるのは殆ど無いようだ。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑭(1987年11月過去画像編)

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引き続き昭和62年11月の大井川鉄道千頭駅での撮影。
C56 44牽引の臨時「かわね路」が発車して行った後、私が乗車する定期「かわね路」を牽引するC11 227の入れ替え作業が開始された。

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↑ 千頭駅構内で入替を行うC11 227  昭和62年11月撮影




入替作業を終えたC11 227は、ホームに据え付けられている定期「かわね路」の旧客編成に連結された。
ホームから間近にC11 227を観察出来るようになったので、あまり見る機会の無い蒸機の運転台を観察する事にする。

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↑ C11 227の運転台




上の画像に写っている椅子の右横にあるのがブレーキハンドル(列車全体を止める列車弁ブレーキと機関車のみを止める自弁ブレーキの2種類がある)で、その上にある長い横棒が自動車のアクセルに相当するハンドル、窓の下にあるタテの棒はおそらく機関車の動く方向(前もしくはバック)を変えるハンドルと思われる。

此の運転台を見て昭和50年代にTVで放映していたアニメ「銀河鉄道999」の最終回で、主人公の星野鉄郎が「999号」の終着駅である星から脱出する為、C62の運転台に乗り込み操縦する場面を思い出したが、自分も千頭駅から脱出する為に此の運転台に侵入し、運転したい衝動を必死に抑えていた。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑮(1987年11月過去画像編)

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↑ 発車を待つ「かわね路」の旧客に晩秋の斜陽が差し込む 千頭にて 昭和62年11月撮影




千頭駅のホームに据え付けられたC11 227牽引の定期「かわね路」。
地方のローカル私鉄でありながら旧型客車7両の堂々たる編成であるが、C11が大井川鉄道本線の最もきつい上り坂で単機で牽引できる客車の両数が最大で5両(C11 190の場合、C11 227とC10 8は最大4両、C56 44は最大3両)である為、最大両数を超える客車を増結した場合、E10の後補機が連結される事になっている。

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↑ C11 227を先頭に千頭駅で発車を待つ「かわね路」




発車前の一通りの撮影を終えて「かわね路」の客車に乗り込む。
昭和40年代中期に生まれた私は、殆ど記憶が残っていない幼少期に蒸気機関車が牽引する列車に乗っていなければ此の「かわね路」が生まれて初めての蒸機牽引の列車の『初乗車』となる。

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↑ 「かわね路」の旧客の車内





旧客自体は、此の画像を撮影した昭和62年の5年前の昭和57年まで首都圏でも常磐線に旧客使用の客車列車(此の時点でも上野発仙台行の普通列車が残っていた)が走っていたり、上野発の夜行急行「鳥海」「能登」「越前」では同年11月の上越新幹線大宮~新潟間開業に伴うダイヤ改正まで旧型客車が使用されていた事もあり地元で見かけたり乗車する機会(当時、上記の上野発仙台行の旧客使用の普通列車によく乗りに行っていた)が結構あったので旧客に乗ること自体に「物珍しさ」は感じなかったが、それでも数年ぶりの乗車となるので車内に入ると懐かしさを感じた。

久々に乗った旧客の車内を見回している内に多くの乗客が乗り込んで来てC11 227牽引の定期「かわね路」は定刻に千頭の駅を発車した。

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↑ 大井川沿いを行く「かわね路」




此の昭和62年11月の2日間に渡る大井川鉄道の本線での旧型電車やSL列車の撮影、或いは井川線での千頭から奥泉までの区間乗車や川根小山での同線列車の撮影については、あれから30年が経過しているにもかかわらず幾らか記憶している部分があったので此れまで当特集にて記載してきたが、最後の行程となった此の「かわね路」乗車の道中については残念ながらあまり記憶していない。

そして此の昭和62年11月の大井川鉄道初訪問から現在に至るまで昨年(2017年)11月の分も含めれば5回ほど同鉄道への撮影に訪れたが、SL「かわね路」の乗車は此の昭和62年の時以来、1度も乗車していないので機会があれば撮影のみならず久々に乗車してみたいと思う。

2017年11月 再び大井川鐡道撮影行⑯

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前回記事まで昭和62年11月の大井川鉄道での過去画像を掲載してきましたが、今回記事から再び2017年11月の遠征記事に戻ります。

Г竜事で抜里駅での撮影を終えた後、金谷に向かう列車が2時間来ない事もあり、時間つぶしの意味合いもあって同駅から隣の家山駅まで歩いて行った。

抜里駅から約1時間かけて家山駅に辿り着くと、趣のある木造駅舎が私を出迎えてくれた。

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↑ 昭和時代の雰囲気を醸し出す家山駅舎   2017年11月25日撮影





駅舎に入る前に、駅前にて此の趣のある木造駅舎を撮影する。
ただ単に撮影するだけでは無く、開いている駅入り口から中にある木造の改札口が写るよう「立ち位置」を調整しつつ撮影した。

抜里の駅から1時間かけて歩いてきたが、それでもまだ金谷行の列車が来るまで1時間あるのと夕食に有り付けるのがまだ先になるので、腹拵えとしておやつの「柿ピーナツ」を駅待合室で食する事にする。

17時半過ぎに漸く金谷行の普通列車が到着したので乗り込み帰途に就く事にする。
金谷でJR東海道線に乗り換え静岡~沼津~熱海と普通列車を乗り継いでいく。

このまま熱海から東海道~上野東京ラインと直行するつもりだったが、何故か急に小田急のロマンスカーに乗りたくなり、此の時間帯でも小田原から最終の「さがみ96号」(小田原21:35発)に間に合う事が判ったので急遽小田原で下車し、一旦駅の改札を出て駅近くの松屋で遅い夕食を摂った後、「さがみ96号」に乗る事にした。

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↑ 乗車した「さがみ96号」(EXE編成)




乗車した「さがみ96号」はEXE(30000型)の10両編成。
EXEの後にデビューしたVSE(50000型)やMSE(60000型)には何度か乗った事はあるものの、EXEに乗るのは今回が初めてだった。

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↑ 列車折り返し作業で車内の座席が自動で回転する様子




「さがみ96号」は、下り新宿発の「ホームウェイ」の折り返しとなる。
車内清掃作業をホームから覗くと座席が勝手に自動回転する様子を見ることが出来た。

車内清掃が終わり車内に乗り込むとすぐに発車。
新宿には22:53に到着し、此の後は埼京~京浜東北線と乗り継ぎ帰宅した。


【2017年11月 再び大井川鐡道撮影行 完】

2017年末~2018年始 各撮影記①

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昨年の年末から今年の年始にかけての当方の休日は

12月23日~24日の天皇誕生日を含めた連休
12月30日~1月4日まで6日間の年末年始休暇
1月7日~8日の成人の日を含めた連休


…の合計10日間で、1枚で5日分が使える「青春18きっぷ」を2枚分買えば上記の休日分を使う事が出来るので、今回は2枚分購入する事にした。
尚『「青春18きっぷ」2枚分』と記載したが、実際に購入すると1枚あたりでも「ご案内券」やら「アンケート券」などで合計7~8枚くらいセットでついてくる。

セットでついてくる「ご案内券」や「アンケート券」も「青春18きっぷ」本券と同様にJR乗車券様式の紙なので発券するコストもかなりの額になると思われるが、現在の「青春18きっぷ」の発売額が11850円なので「ご案内券」とか「アンケート券」をJR乗車券様式の紙では無く、別途普通用紙ないしはパンフレット等に記載し発売の際に購入者に渡すスタイルにすれば「青春18きっぷ」の発売額よりも1000円位コストカット出来るのではないか…と思う。

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↑ 「青春18きっぷ」購入の際にセットで付いてくる「アンケート券」




更に言いたいことがあると言えば、「青春18きっぷ」のアンケート券。
購入した「青春18きっぷ」で使用したルートや列車を記載し使用後に駅改札に提出する…という事だが、かなり前の1990年代から「青春18きっぷ」購入の際にセットで付いて来て現在でも継続しているという事は、実際に行程を全て記載し使用後に駅に提出する購入者が多い…という事を意味しているのだろうし、JR側としても今後のダイヤ構成などに貴重な資料となりうる事で「アンケート券」のセットを続けているのだろう。

しかし、「アンケート券」に記載して駅に提出したからといって「青春18きっぷ」で使用できる普通・快速列車のダイヤが便利になったか?…と言われれば、運転本数の減少とかダイヤの分断化などむしろ以前と比べても不便さが増してきている様な気がする。

無論、全国的な「少子化」の影響による普通・快速列車の利用者の減少とか、今後の安定的な鉄道運営に於いて徹底的な合理化の必要性などの理由もあると思われるが、私としては今まで駅改札等に提出された「青春18きっぷ」のアンケート券の『書かれた内容(行程)』も普通・快速列車のダイヤ設定に大きな影響を与えているのではないかと思っている。

すなわち「青春18きっぷ」利用者の中には行程の都合上、同きっぷでは利用できない新幹線や特急列車などに別途運賃、料金を支払って乗車している人も多数いると思われるが、アンケート券に行程を記載する際に『一部区間新幹線もしくは特急利用』と書き込んだ上で駅に提出する人間が多ければ多い程、JR側としては『「青春18」利用者で新幹線や特急に乗車する人間が多いのだから、普通・快速列車のダイヤを不便にしたり本数を削減すれば、もっと新幹線や特急に乗ってくれる「青春18」利用者が増える』…という事で、今後に於いても普通・快速列車のダイヤの不便さは更に増す事になるかもしれない。

「青春18きっぷ」のアンケート券に行程を記載して駅に提出しても別に粗品とか貰える訳ではないし、今後の普通・快速列車のダイヤ設定の影響を考えれば、あのアンケート券の提出は差し控えた方がいいのかもしれない…。

2017年末~2018年始 各撮影記②

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2017年~2018年冬季発売分の「青春18きっぷ」を使用した12月23~24日の遠征の記事です。

当初は新塗装編成が相次いでデビューしたE653系「いなほ」の従来塗装編成の撮影の為、「青春18~」が使用できる12月10日以降の週末にでも雪の羽越本線へ行くつもりだったが、昨年12月の時点ではまだ羽越本線沿線では殆ど雪が積もっておらず、其の後週末ごとに天気予報や積雪状況をチェックしたものの状況は変わらなかったので、12月23~24日の遠征は新潟周辺でのキハ40系列や115系のリバイバル塗装の撮影(全く運用を把握していないが…)に目的を切り替え出かけることにした。

23日(天皇誕生日)の朝3時に起床し、南浦和4時半発の京浜東北線の南行1番電車に乗る。
上野で下車して常磐線1番電車となる5:10発321Mに乗り水戸に向かい、その後は水郡線~磐越西線のルートで新潟に向かう事にした。

水郡線327D(水戸7:28~郡山10:50)~磐越西線1227M(郡山11:39~会津若松12:59)と乗り継ぎ会津若松へ。
此の後は野沢行の231D(13:08発)に乗り、途中の塩川ですれ違うキハ40系列使用の232Dがリバイバル塗装車だったら山都で下車して有名撮影地の鉄橋で折り返しの233Dを撮影しようと思っていたが、残念ながら新旧の新潟色塗装編成だったので終点の野沢から後続の233Dに乗り新潟に向かった。

此の日は新潟でマルヨし翌24日の早朝、新潟5:17発の信越線420Mに乗る。
此の日の予定としては信越線の鯨波か長鳥~塚山界隈で午前中に高田、直江津~長岡、新潟へと相次いで下って来る115系の快速を撮影するつもりだったが、長岡で直江津行の1324Mに乗り換え現地に向かうも、海沿いの鯨波はまだしも山中にある長鳥~塚山界隈ですら積雪が殆ど無く(所々に雪はあったが…)撮影意欲が失せて来たので結局終点の直江津まで乗り通し、折り返しの8383M快速に乗り帰途に就く事にした。


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↑ 架線凍結による停電で室内灯の一部が消灯している1324M(E129系2連)




そういえば長岡から直江津まで乗車した1324Mでちょっとしたハプニングがあった。
長岡を出て4つ目の越後岩塚の駅を出発するも何故か速度が上がらず、暫くノロノロ運転を続けた後に室内灯が消灯(一部の予備灯は点灯)し列車が停止してしまった。

1324Mはワンマン運転(運ちゃんの他にもう一人乗務していたが)なので、運ちゃんが車内放送で

「只今、架線凍結の為列車が動けない状況になっております。…お急ぎの所御迷惑をおかけしますが…」

とのアナウンスがあった。

寒冷地では架線に霜が付着する事があるので吾妻線ではクモヤ145、上越線越後中里以北ではEF64の「霜取り列車」が走っているし、今乗車しているE129系等には「霜取り」用のパンタが増設されている筈(但し一部の編成のみで全編成に装着されている訳ではない)だが、架線に「霜が付着」するのと「凍結」とでは電車に与える影響とか対処法が全く異なるのだろうか…?

因みに1324Mは20分程現地で悪戦苦闘した後、何とか運転を再開した。

2017年末~2018年始 各撮影記③

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結局「乗る鉄」のみに終わった前回記事の12月23~24日の遠征を終え、今度は12月30日~1月4日の遠征の報告です。
この遠征では、年始の1月1日~3日にかけてJR山口線新山口~津和野間に於いてC56 160+DD51牽引で今回から昨年9月にデビューしたJR西日本35系新型客車で運転されるSL「津和野稲成号」の撮影をメインに計画していた。

また其の一方で、東京都内にて12月30日夜に「鉄仲間」による忘年会も計画されていたが、当方としては此の遠征に於いて12月30日東京発の臨時「サンライズ出雲」を翌31日に雪の伯備線での撮影(定期「サンライズ」の伯備線撮影は撮影に行く為の先行する列車との時間的余裕があまり無い為、時間的余裕のある臨時「サンライズ」の撮影を計画していた)を計画していて、30日夜に開催される忘年会に出席していたのでは現地に向かうのが不可能になるので「鉄仲間」には欠席の通知を入れておいた。

しかし其の後、某鉄道誌にて12月30日に485系お座敷電車の「ゆう」が上越線高崎~越後湯沢(回送で石打まで入線)間で運転される情報が掲載され、雪景色の中を走る「ゆう」を撮影したいと思う一方で当初予定していた臨時「サンライズ出雲」を撮影する伯備線では積雪が殆ど無いようなので、当初は遠征出発日の12月30日早朝から西に向かう予定だったのを上越線での「ゆう」撮影に切り替え、同列車撮影後に西に向かう行程とした。

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↑ 雪景色の諏訪峡を往く115系 上越線上牧~水上にて  2017年12月30日撮影





遠征記の本文に入る前に、雪景色の諏訪峡を往く115系の画像を掲載する。
1960年代から長きに渡り関東北部~首都圏の通勤通学輸送に大活躍し、晩年は高崎以北で細々と活躍を続けていた高崎車両センター所属の115系。
ついに先日、2018年3月のダイヤ改正での引退が発表され、現在多くの鉄道ファンの想いを受けつつ最後の力走を続けている。

2017年末~2018年始 各撮影記④

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前回記事の続きです。
2017年12月30日の早朝6時前、上越線に入線する「ゆう」の撮影の為、自宅を出る。
当初「ゆう」の撮影は上越国境を越えて確実に雪がある越後中里辺りを予定していたが、数日前に他の方のブログ記事を見た際、水上~上牧間の諏訪峡の撮影地が雪化粧していたのを見て、水上手前でも雪景色の中を走る「ゆう」の撮影が出来ると思い、上越国境は越えずに諏訪峡での撮影に変更する事にした。

いつもは上越線方面に撮影に向かう際は浦和5:32発の高崎線1番電車821Mに乗る事が多いのだが、「ゆう」の水上到着が12時過ぎである事や、「ゆう」1本程度なら其れほど撮影地が混雑する事もなかろう…と思い少し寝坊して浦和6:26発の825Mに乗る事にした。

自宅最寄りの南浦和駅には6時過ぎに到着。
高崎線825Mは当初浦和から乗る予定だったが、この時間だったら赤羽まで行っても間に合うな…と思い京浜東北線の南行電車に乗り赤羽に向かう事にした。

赤羽で下車して宇都宮・高崎両線が発着すると屮曄璽爐妨う。
階段を上がると高崎線825Mの到着を待つ人々でホームは混雑していたが、ホーム先端に行くと待つ人が疎らな状態だったので此処で825Mの到着を待つことにする。

やがてE231系10両編成の825Mが赤羽に到着。
どうせ途中停車駅の赤羽ではボックス席には座れないだろうと思い、ロングシート車の┨羲崗莠峺蚤圓辰討い燭里世、目の前を通り過ぎる825Mの先頭号車にボックスの空席があるのを発見し、急いでホームをダッシュし号車乗車口に向かい、ドアが開いて825M車内に入り無事にボックスの空席を確保した。

いつもなら地元から高崎線に乗る際はロングシートにしか座れない場合が多いのだが、今回の年末年始の遠征初日から幸運に恵まれ「いい旅」になるのでは…という気がしてきた。

高崎で825Mを降りて上越線727Mに乗り換える。
目指す撮影地の諏訪峡の状況視察の為、一度終点の水上まで向かい、折り返しの734Mに乗り撮影地最寄りの上牧まで引き返した。

駅から徒歩で撮影地に向かう。
実は前回記事に掲載した画像(115系)の撮影地の正確な位置を知らなくて、上越線や諏訪峡を跨ぐ大橋まで行ってしまったのだが、上牧駅方向に少し戻った所で先に来ていた同業者の方が積もった雪を踏み鳴らして「足場」を作っていたので、挨拶をして御邪魔させてもらう事にした。

当初は先に来ていた同業者の方と私の2人だけだったが、其の後更に2人来て11時半頃に通過する115系の731M(前回記事に画像を掲載)と12時ごろに通過する「ゆう」を撮影した。

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↑ 雪の諏訪峡を往く「ゆう」  上越線上牧~水上にて 2017年12月30日撮影




私としてはどちらかというと引退間近の115系よりも「ゆう」の方が此の撮影の「本命」だったのだが、115系の撮影時には雪も止んで「ベストな状況」の時に通過したのに対して「ゆう」通過時には、小雪が舞っている上に薄くなった雲から日が差し込んで来て『逆光』の状況になってしまったので、前回記事の115系の画像よりも「風景の『クリア感』」が少し劣る作品に仕上がってしまい弱冠不満が残る出来栄えとなってしまった。

2017年末~2018年始 各撮影記⑤

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諏訪峡での「ゆう」の撮影を終えて機材を片付ける。
此の後は当初からの計画通り、正月3が日に運転されるJR山口線のSL「津和野稲成号」の撮影の為、西に向かう事になっているのだが、諏訪峡の撮影地から此の後乗車する上越線740M(水上13:14~新前橋14:06)に乗るのに上牧の駅に戻るのか或いは水上の駅に行くのか迷っていた。

というのも△竜事に記載した12月23~24日の新潟方面への「青春18きっぷ」での遠征の際に、上越線の1732M(長岡10:34~水上12:52)と740Mと乗り継いで帰って来ており、水上から乗車した740Mが1732Mからの乗り継ぎ客で混雑していたのを憶えているので、上牧の駅に行って740Mに乗車したのでは座れない可能性があるので始発駅の水上に行こうと思ったのだが、此処諏訪峡から水上の駅までは上牧駅に向かうよりもかなりの距離があり、徒歩で行くには体力的に厳しい面(6日間に及ぶ遠征の初日であるので体力を温存したい)もあり、結局立席を覚悟の上で上牧の駅に戻る事にした。

其の上牧の駅に戻る途中、関越交通のバス停を発見。

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↑ 上牧駅に向かう途中にあった関越交通「高日向下」バス停  2017年12月30日撮影(下の画像も)




バス停の時刻表を見ると、あと数分で水上方面に向かうバスがやって来るので、上牧の駅に行くのを止めて水上駅に向かう事にした。
12時半頃、バスがやって来たので乗車し水上の駅に向かった。

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↑ いつの間にか駅舎の外観が改装(改築?)されていたJR水上駅




最近は上越線の水上駅の乗り換えの際にホームや跨線橋を使う事はあっても駅の外に出ることが殆ど無かったので、いつの間にか駅舎の外観が上の画像の様に変わっているのを知らなかった。
駅に入り“屮曄璽爐740Mの到着を待っていると、隣の番ホームに長岡からの1732Mが到着し大勢の乗り換え客が“屮曄璽爐忙ε掘740Mの各乗車口には長蛇の列が出来た。

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↑ 水上に到着した1732M




やがて折り返し740Mとなる下り733Mが水上に到着。
折り返しの車内清掃の後、乗車が開始されるとあっという間に席が埋まり立席客も多数出るようになった。
其の後、740Mは水上駅を発車。
此の後は新前橋、高崎と乗り継ぎ上野東京ラインで西に向かった。

《12月30日 行程》
南浦和(京浜東北)赤羽626(825M)801高崎824(727M)930水上941(734M)947上牧〈撮影〉高日向下1230頃(関越交通バス)1245頃水上1314(740M)1406新前橋1410(630M)1420高崎1424(1891E)1801熱海〈夕食〉熱海1854(5477M)2103掛川2109(981M)2211豊橋2217(5367F)2310名古屋〈ヨ〉
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